質料形相論の<直観>及び<思考>への応用


こちらのブログに気儘に思い付くことを書いているうちに、明確化してきた一つの考えがあります。それは、思考や直観というものに、形相的・実体的な要素と質料的・表現作用的要素とがあるということです。これは、学術的な論文を書いていても、考えなかった事でした。(形相や質料というのは、たとえば木の机の場合、机のフォルムが形相、木が質料というようなこと。思考や直観といった精神的な領域のものにおいては、形相が対象の方向にあるのに対し、質料(たとえばプロティノスの「叡智的質料」や西田の言う質料)は作用の方向にあります。ごく簡単に言えば、<何を><何でもって表わすか>ということで、<何を>に当たるものが形相的要素、<何でもって表わすか>に当たるものが質料的要素です。)そして、質料形相論を適用すると、漠然としているものが明確化されるのではないかと思います。

直観に関しては前回も述べましたが、たとえば芸術や学問などの様々な分野での直観があります。そして、その違いは質料的・表現作用的要素の異なりによってもたらされていると思われます。いずれも直観内容が形相的・実体的要素ですが、質料的・表現作用的要素として思考作用、感覚作用、表象作用などがあり、直観内容の学術的表現や芸術的表現が可能となると考えられます。つまり、思考作用が働く場合は学術的表現となり、視覚が働く場合は美術となり、聴覚が働く場合は音楽となり、表象作用が働く場合はファンタジーのようなものとなるということです。直観そのものは思考や感覚などの作用を超えていますが、私たちが直観に与るのは、前回も触れたように、表現することになる作用の側に、その作用を超えることによります。何の事か分かり難いかもしれませんが、これは当たり前のことで、たとえば画家は視覚的な感性を磨くことにより視覚の先にある直観(インスピレーション)を得て絵を描く、というようなことです。直観を得たからと言って、画家が突然作曲家になるわけではない、学者が突然宗教家になるわけではないのでして、表現することになる作用を超えて直観に与り、再びその作用を通じて直観内容を表現します。

作用を超えるというのは、直観においては作用が<無>となり、直観内容だけになるということです。ここから直観そのものの自己展開として、表現作用(制作者)と作用対象(作品)とが自ずと分化します(この時、従来の意味での質料――これは物質的な質料で、たとえば絵なら紙や絵の具ですが――が作用対象である作品を作る素材として用いられることになります)。直観に与る制作は、制作者の意図的な作為を超えています。制作者が作品を作るのは、直観の自己展開としては、直観そのものの自己表現です。それがそのまま制作者の自己表現でもあります。そして、たとえば絵なら、一枚の絵の諸部分を成す諸々の色や形は一つの直観内容の自己展開として、一つの統一性のもとに構成されます。あるいは、一つの直観内容が、諸部分へと分化すると言えば良いかもしれません。つまり、直観内容は、表現作用とその対象とに二分されるだけでなく、更に対象の諸部分へと分化するということです。

(K さんは「形成力」と「親和性」という言葉でお考えになっていて、諸要素間に「親和性」が見られることを指摘してくれましたが、諸要素間に「親和性」があるのは、それが「一つの直観の自己展開」だからではないでしょうか。)

直観については以上で簡単にまとめましたが、不十分な点があれば、また追記します。


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私たちが普段行っている思考一般については、以前、【思考・言論における四つの類型】でまとめたとおりですが(これについては、一部の方々からは比較的適切なご理解が得られたと思います)、私の見るところ、形相的・実体的要素として①洞察や経験知、②直観、③知識、④感情や欲求などの違いがあるのに対し、質料的・表現作用的要素はいずれの場合も論証的思考の作用で、思想や言論として①から④の異なるタイプを形成しています。表現作用にあたるものがどれも論証的な思考作用なので、表現される時にはその人の<考え>として表現されますが、本質が異なると言って良いと思います。そして、思考作用には相性の悪いものがあって、③や④の場合、論理が破綻していることが多いというような事をあそこで書きました。上で直観について述べましたが、直観内容が形相的・実体的要素、思考作用(論証的思考作用)が質料的・表現作用的要素という組み合わせのものが、ここで言う②に当たります。