思想・言論における四つの類型

ギリシア哲学では、人間のいろんな精神の働きが論じられています。たとえば、直観(ヌース)、論証的・推論的思考(ディアノイア、ロギスモス)、思慮(フロネーシス)、知識(エピステーメー)、イマジネーション(ファンタシアー)、欲求(エピテューミアー)、感情(パトス)などです。ギリシア哲学では、それぞれの働きを個別的に取り上げますが、私たちの日常の精神生活においては、これらが様々な仕方で組み合わさって働いていると、私は思います。今回は、現在私たちの間で行われている言論を見ていて、私が思うところを書きたいと思います。

<思考>の働きというのは、上に挙げた働きの中の「ディアノイア(逐次的思考)」と「ロギスモス(推論)」で、いずれも順を追って物事を筋道立てて考える知性的な働きを言います。全体の整合性、首尾一貫性、無矛盾性などを把握する働きで、論証的(diskursiv)な思考です。とはいえ、上でも触れたように、私たちの実際の思考や言論においては、純粋に<論証的思考>だけが働いているのではなく、直観や感情などの他の働きが連動していますし、むしろ、別のものが実体として<論証的思考>を方向付けているのが普通だと思います。そして、<論証的思考>の根底にある実体が何であるかによって、形成される思想や言論が異なった性質のものになっていると思われます。以下、組み合わせに応じて、四つのタイプに分類してみました。(この組み合わせという事についてですが、私は思想・言論においてその実体をなしている直観、感情、欲求等を形相的要素、表現手段である<論証的思考>を質料的要素とみなして、以下のように考えました。2017.4.6 追記)

※ これは基本的に、人の類型ではなく思想や言論の類型です。人によって傾向の違いがあるのが一般的だとは思いますが、よほど偏っているのでない限り、通常は一人の人が状況や事柄などの違いに応じて、複数のタイプの思考や言論を行います。


【1.洞察や経験知に基づく思想・言論】

一般的に、私たちが日常行う思考は、事物についての正しい洞察や、自分がいかに行為すべきかという思慮を求めて行なうものが多いと思います。そのために、諸々の情報や自分の過去の経験を考え合わせて、勘考を行います。ここでは、そうして得られた洞察や思慮に基づいて形成された思想、言論を取り上げます。

これは、人間をよく見て理解し、その理解の上に構築している人間観や人生観といったものの事です。格言や警句、処世訓のようなもの、作家や評論家のもつ思想などが、これに入ると思います。人間理解、経験知、世間知に基づく思想で、真理を言い当てているものです。このタイプの思考に秀でた人は、いわゆる賢人、賢い人、利口な人です。

下の【2.直観に基づく思考】と異なり、このタイプの思考、思想、言論が分かりやすいのは、それに接する人たちが、言論の全体的な整合性を考えたり理解したりするまでもなく、一言聞いただけで自分自身の経験に思い当り、すぐに納得できるからです。

<洞察>や<経験知>も、<推論的思考>と結び付きます。つまり、人の観察において、ある徴表を見てとると、それが当て嵌まる範型を想起し、そこからその人の行動や反応などを予測するのです。

自分の限られた経験のストックのみで物事を判断し断定するのは、かえって<洞察力>の不足や欠如です。その場合、対象を見ておらず、正確な把握をしないで、決めつけてしまうことになります。

また、<洞察力>、<経験知>、<世間知>は何でも高級な知恵だというわけではなく、深い人生観をもたらす高尚なものから、個人的な目的を達成するためだけのものもあります。たとえば、悪人は人間の弱点に目を向けるといった具合に。

思想としては、<洞察>や<経験知>に基づき、感情的要素を含むものが、一般的に最も好まれるだろうと思います。

<洞察力>は、個人的な実体験だけでなく、<知識>からも多くのものを得て、洞察をより強化したり、そこからヒントを得たりします。

普遍的な事柄の考察に進んだり、総合的な全体性についての理解を求めたりする場合は、次に取り上げる<直観>に向かっていくと思います。洞察力が優れていて、個々の事柄についての適切な判断を行う人でも、必ずしも「思想家」や「哲学者」ではありません。個々の事柄についての見解を持つだけでなく、一つのまとまりのある思想を持とうと思ったら、世界や人生や、ものの本質についての<直観>といえるものを持たなくては無理だと思います。


【2.直観や理解に基づく思想・言論】

上で述べた<洞察>が個別的、経験的な事柄の直接的な把握であるのに対し、<直観>は、ある程度大きな全体性や普遍性についての直覚的な理解だと言えると思います。<直観>については様々な考え方があると思いますが、ここでは<全体の直覚的な把握>という意識作用を<直観>として扱うことにします。

<直観>というと、一般的に「直感」と混同されますが、「直感」で分かる事は個別的・経験的な事柄ですので、「直感」は<洞察>の一種だと思います。<直観>は説明不可能な事を捉える漠然とした感覚ではなく、「理解」の一種だと私は考えています。

<直観>は、順を追うという仕方では掴みきれない範囲に及ぶ大きな見通しを、瞬間的、直覚的に獲得する働きです。一つのまとまりをもつものの全体構造についての理解も、<直観>と言って良いのではないかと、私は思います。特に大きな全体性をもつもの(たとえば世界とか、存在とか、神とか)についての直覚的な理解は、<知的直観>とか<神秘的直観>と呼ばれるものになります。しかし、比較的小さな全体についての把握も<直観>で、それは必ずしも神秘的なものではなく、私たちの日常の中でも行われている事だと言いたいと思います。

たとえば、私たちが普段ものを考えている時に、「ああ、そうか」と分かる瞬間というのがあるだろうと思います。これも、一種の直覚的な閃きで、<直観>の一種だと言って良いと思います。分かる瞬間は、一挙に全体が把握されるのです。そしてその瞬間は、「ああ、そうか」というくらいの言葉しか出なくても、その内容は次の瞬間に、脈絡のある説明として展開されます。つまり、直覚的な理解に続いて論証的思考の働きが生じるのです。このような場合の思考は、<直観>と<思考>との組み合わせです。ただし、私たちの日常の理解において起こるのは比較的小さな全体像の把握で、一瞬の内に言語化されてしまいますので、あまり劇的な<直観>の体験として自覚されません。

それに対して、<直観>の対象が大きな全体になればなるほど、即座にすべてを言語化できないので、<直観>の状態が劇的な体験として意識に上ることになります。それが<知的直観>や<神秘的直観>です。宇宙の根本原理や体系的な世界観を説く古い哲学や宗教教義は、世界の全体像に対する<知的直観>や<神秘的直観>に基づき、それを筋道立てて説明しようとしている思想です。この種の思想においては、最初に結論が<直観>により与えられており、哲学の場合は、<直観>で把握された事柄が、「ディアノイア」や「ロギスモス」といった論証的思考を通じて説明されます。更に、<知識>と結び付いて、学術的になります。

宗教は、人々を救うという使命をもちますので、宇宙の絶対者についての<直観>だけではなく、人の心に対する<洞察>に基づくものでもあると思いますし、感情的、表象(ファンタシアー)的要素も多く含んでいると思います。

一般的に言って、真実を捉えた思考は、こうした<直観>や、前の項で述べた<洞察><経験知>に支えられたものだと思います。<直観>によって全体像が把握されていないのに、ただ<推論>だけで推測して闇雲に結論に向かおうとするのは、ただの<憶測>だということになります。一般的に<推論>が価値のないものだと思われているとしたら、<直観>や<洞察>を欠く<憶測>が<推論>だと考えられているからかもしれません。

<直観>とただの思い付きとの違いは、思い付きいの場合は、すぐに違っていることが分かったり、しばらく放っておくと忘れたりするのに対し、<直観>の場合は、何年経っても忘れたり、分からなくなったりすることがないということだと思います。

<直観>を求めるのは、物事についての真の理解を求めるということだと思います。真理や真実は、私たちの個人的な都合を超越していますので、敢えてそれを求めるのは、個人を超えようとする理性的欲求だと思います。


【3.知識に基づく思想・言論】

このパターンに秀でていると、<知識>が豊富で、情報処理能力が高く、学業の優秀な人になります。そのため、世の中でいわゆる知識人として活躍します。調査をして、その内容をまとめ、人に報告する能力に長けています。

<知識>というのは情報源ですので、恣意的な取捨選択を事前に行わずに何でも知っておくことは、正確な総合や分析を行うために有益です。特に社会的な問題について考える場合は、経験知だけでは限度があって、視野が狭くなりますので、多くの<知識>が不可欠だと思います。

また、上述の【<直観や理解に基づく思想・言論】が広い<知識>と結び付くと、学術的で壮大な思想を形成します。

概して、あまりに<知識>好きだと、自分で考える前に情報収集に走ってしまいますので、情報処理は早くても、思考をしないままになってしまいます。思考するのではなく、「こういうものだ」という<知識>を確認しているのかもしれません。一般的に、知識優勢型の人の考えをつくっているのは他人による言論で、世間で有力な考えを正しい考えだと見なす傾向があります。<知識>が好きで、<思考力>を欠くと、他からの誘導や情報操作を受けやすくなります。

そのような知識人が理屈を言う場合も、実際に働いているのは論理的思考以上に<知識>だと言った方が良いかもしれません。つまり、他の人たちがどういう理屈を言っている、という<知識>です。

下で述べる<欲求>が根底にあると、自分に都合の良い<知識>を集めて、ストーリーを作ります。このタイプの思考は、基本的には下の【4.感情や欲求に基づく思考】の一種だと言っても良いですが、そこに<知識>的な要素が入り、<欲求>、<知識>、<論証的思考>という組み合わせで働く思考です。次の項で詳述しますが、<欲求>が根底にある<論証的思考>は、論理的な欠陥を抱えやすいものになります。

そして、理解を欠く<知識>はしばしばイメージ的、空想的になります。より多くの<知識>や<洞察>と結びつき、全体的な<直観>に至れば良いのですが、<イメージ>だけで終わり、その印象が固定化され、知識化されてしまうことは珍しくありません。

とりわけ精神的な事柄を対象にする場合、実体が把握され難いため、<知識>と<イメージ>だけの組み合わせになっていくことがあります。<知識>以外の他の機能が不足すると、ある認識に別の認識を、足し算するように付け足していくばかりになり、大した結論が出なくなると思われます。そうして書かれた専門書から、読者は多くの断片的な情報や全体の漠然とした印象は得られても、総合的な理解が得られることはないでしょう。

思想や言論というものとは異なるかもしれませんが、たとえば危機管理が上手くいくというのは、<知識>や<経験知>と、<推論的思考>が結び付いて機能する場合だと思います。


【4.感情や欲求に基づく思想・言論】

ここでは、感情や欲求について<洞察>的な考察を行うのではなく、自己の感情や欲求を肯定するために、<論証的思考>を行うというケースについて取り上げます(感情や欲求について<洞察>的な考察を行うのは、基本的に【2.洞察に基づく思想・言論】に分類されると思います。洞察の対象は様々ですので)。

上で取り上げた、<洞察>、<直観>、<知識>が比較的客観的、普遍的であるのに対し、<感情>や<欲求>は主観的、個人的だと言えます。<感情>と<欲求>とは連動している場合も多いので、ここでは一緒に扱います。

思いやりを欠いた人たちとの関係の中で、自分の感情や欲求を自己肯定したり、相手にも受け入れてもらったりするために、それを正当化する思考を始めることがあります。この場合、<感情>や<欲求>に基づいて、<論証的な思考>を行うことになります。訴訟などの場で行われる言論も、これに入ります。

社会に対する不満というのも一種の<感情>で、満足できるように変えたいというのは<欲求>ですが、何等かのロジックに基づいて「思想」という形を取ることがあります。それは同じ<感情>、<欲求>を持っている人たちから理屈抜きに支持され、過度になる傾向があります。しかし、度を越すと、論理的に矛盾や欠陥のある言論となっていきます。

特に問題なのは社会の中で、もはや正当とは言えない、自己本位の感情や欲求、利害を通そうとし、反対意見を封じ込めようとする場合にも、この種の思考や言論が行われるということです。こうした主張をする人に正論が通じないのは、この人の求めるものが<理>ではなく、<欲求>や<感情>だからです。特に、<知識>と結び付くと、社会の中で有力な言論の中から、自己に有利なものをいくつか繋ぎ合わせて、自己正当化を行います。

実体が利害だと屁理屈になるということについて、素朴な例を挙げるとすれば、党利党略のみを考える悪しき政治家(政治屋)の議論でしょう。

学問の場での議論であっても、特定の結論を出したいという<欲求>や<感情>に動かされると、こじつけの議論になってしまいます。

<感情>や<欲求>は<論証的思考>よりも、<洞察>や<経験知>と結び付くと生産的だろうと思います。自己の否定的な感情を慰めることも、また、他人の慰めになることもできます。また、幸せや成功など特定の目的への欲求がある場合には、目的実現のための方法論を形成することになります。ただし、悪巧みも<欲求>と<洞察>、<経験知>の組み合わせですので、倫理的に良いか悪いかは、別の問題になると思います。


補足1 【理念・理想に基づく思想・言論】

①生産的な理想主義と、②破壊的な理想主義とがあると思います。そして、どちらも上に述べたタイプに還元されるものかもしれません。

① まず、生産的な場合の<理想・理念>は、正義や公正、公共性そのものを追求するもので、そのために自己を律し、個人的な利害を顧みないものです。このような理想は大なる全体、普遍性への志向をもつもので、<直観(ヌース)>の対象です。そこには、最初から無私の精神が宿っているものではないかと思います。それは「イデア」的なもので、正や美についての真の理解が根底にあると思います。そのような把握から、個々の具体的なケースにおける指針が与えられます。こうした<理想・理念>に基づく思考は、【2.直観(ヌース)に基づく思考】の一種だと考えられます。「イデア」は抽象概念ではなく、形成原理で、生産的なものです。(形相の自己表現性、自己実現性については、私は「ロゴス」や「顕現」というタームでこれまで何度か書きました。それは、それぞれの質料(この場合、現実の諸々の状況)との結び付きで自己を具体化する傾向をもちます。)

② もう一つの<理想・理念>は抽象的な観念で、空虚なイメージです。内容がないので、美名のもとに、しばしば別の実体が入り込んでくることがあります。その実体というのは、自分にとっての、あるいは有力な発信をする人たちにとっての「好都合」です。当然のことながら、己を律する力はありません。簡単な例を挙げるとすれば、たとえば「自由」という理想が、理解を伴わない単なるイメージにすぎない場合、人が自分勝手な振る舞いをする時の口実になる、というような事です。

抽象的なイメージとしての<理想・理念>に基づく思考は、【4.感情や欲求に基づく思考】や【3.知識に基づく思考】と関係をもちやすいものです。というのは、【4】の思考は、自分の欲求や感情を正当化する材料を探すので、自分の求めが社会全体の理念に適っていることを主張しようとしますし、【3】の思考にとっては、社会的に有力な主張が、尊重されるべき主張だからです。そのため、ひとたび世間で認められると、その後、現実的な状況に応じて見直されるということが難しくなります。

特に問題なのは、【4.欲求に基づく思考】が美しい理想や理念を掲げる場合で、その動機が実は<利害>だという場合です。立派な理念を持ち出すと、人が反対しにくいので、自分たちの主張を通すための一つの有効な方法になります。そこで、美しい理想が、意外にも悪の温床になります。その理想にコミットする動機が、個人的な善意に基づく場合でも、大きな利害の中で利用されることになりかねません。

また、理念や理想が極端に自己中心的なものになった場合の問題は、平気で他の多くの人たちを犠牲にすることでしょう。

理想を掲げる場合、その精神を理解していなければならないし、そうするように努力しなければならないと思います。でなければ、そこに何が入り込んでいても、批判も検証もされず、思考停止状態のまま、絶対的な善として通されてしまいます。理念や理想をもつ場合、常に「何が本当の善か」を追求しなくてはならないと思います。そして、理念や理想が、イメージ的な抽象概念からイデア的、直観的な理解へ、また個人的な欲求と結び付いたものから無私のものへと変わっていく必要がありますし、善を実現できるように、現実を考え合わせる<思考力>や<洞察力>、及び現状についての<知識>が要求されると思います。


補足2 【「考えるな」という教え】

ところで、しばしば宗教的な指導者が、「考えるな」ということを言うようですが、一言で「考える」と言っても、上のようないくつかの思考タイプがあります。「考えるな」と言われる時に念頭に置かれているのは、一般的には【4.感情や欲求に基づく思考】ではないでしょうか。確かに、上でも指摘しましたように、特に<感情>と<論証的思考>との相性は良くありません。

また、宗教の根源を把握しようとする場合、【3.知識に基づく思考】も邪魔な場合があるかもしれません。宗教性の根源にかかわる【2】の<直観>は、言語的な思考を超えていますし、<知識>から喚起される<イメージ>とは別のものです。

しかし、そうした理由ですべての思考を否定してしまったのでは、人間にとって重要な多くの働きがないがしろにされてしまいます。【2】の<直観>にしても、それ自体は言語を超えていても、それは一種の理解で、<思考力>と結び付くことによって、他人に説明できるものとなります。あるいはむしろ、下に書くように、<知的直観>と言えるものをもたらすのは<論証的思考力>ではないかと思います。


補足3 【論証的思考が直観につながる】

最初に述べましたように、<論証的思考>というのは、物事の筋道を立てて考え、全体を整合的に、矛盾のないように理解する知性の働きです。矛盾に気付き、矛盾を解く答えを要求するのが、そうした<思考>の働きです。矛盾を解決しようとして考え続けていると、私たちはそれまで自分の気付いていなかった、より大きな全体性の<直観>に至ることがあります。ある見方においては矛盾であることも、別の見方においては矛盾でないということは、いくらでもあります。「全く別の見方において矛盾が解かれる」という見通しは、瞬間的に、<直観>としてやってきます。特に大きな全体性の見通しは、<知的直観>となります。問題が深くて大きなものであるほど、長い時間を要するとは思いますが、矛盾が自分にとって問題となり、完全に納得できる形でそれを解こうとする努力を続ける場合、<論証的思考>は最後に<知的直観>に至る、つまり<解る>ということが起こるものではないかと思います。