イデアとインスピレーション(存在論と創作論)

哲学で<存在>を扱うためには、<存在するもの>がどこから生じるかを考える必要があると思うのですが、その手掛かりとなるのが、私たち自身が行う創作だと思います。物を作り出すというのは、今までに存在していなかったものを在らしめるということです。哲学というのは、単なる理屈や推論でものを考えることであるかのように誤解されがちですが、そうではなく、少なくとも一番重要な部分に関しては、自分において現に起こっている事を分析して考えるものではないかと思います。(ユングのタイプ論を取り上げたいと思いながら、なかなか出来ませんが、ユングの言う「内向的思考」というのは、この種の哲学的な思考のことだと思います。これに対して、知識をもとに推論していくのは、「外向的思考」になると思います。)そこで、<存在するもの>がどこから、どのようにして生じているかを考える場合も、自分が物を作り出す時、どのようにしているかということが手掛かりになります。

私たちが物を作る時、既に存在している別の物を真似たり組み合わせたりして、新たな物を作ることもできますが、前回の話(「創作において働く、作為を超えた力 ~行為的直観~」)との関連でいえば、そうした場合の制作は、自分の作為で行うものだということになります。これは、存在するものを模したり、組み合わせたりして行う制作ですので、<有>からの創造だと言えます。これに対し、全く独創的なもので、しかも完全性の高いものが出来上がることがあります。それ以前になかったものを作り出すのは、<無>からの創造です。そこで、<無>からどのように作品が生じてくるかということを考えてみたいと思います。

そうした作品は俗にいう<インスピレーション>によって生じるのだ、と言ってみることにしましょう。インスピレーションは、単なる<思い付き>とは異なります。<思い付き>の場合は、部分的に何かに似ているものがイメージされていたり、組み合わされていたりするのではないかと思います。つまり、既に存在しているものからの影響が多分にあるということです。今まで存在しないようなものが生じる場合、それは<無>の世界からやってくるのであり、それを掴むのがインスピレーションというものだと思います。インスピレーションは自分で意図的に引き起こすものではありませんので、それがやってきた時、人は自己の作為を超えた力にあずかったという感覚をもちますし、それによる創作においては、自分の力以上の事ができたと感じます。

インスピレーションが湧くのは瞬間的で、しかもそこに全体が現われます。インスピレーションにおいて、瞬間的に全体が現われるというのは、部分的に、少しずつ出来てくるのではない、ということです。作家は、インスピレーションとして受けたものを次に表現するわけですが、たとえば絵画のようなものですと、描き上げるまでに、時間が掛かります。作曲の場合も、一曲の音楽として展開する時間が必要になりますし、それを楽譜に書く時間も要るかもしれません。そして、その間ずっと持続的に、そのインスピレーションに意識の焦点を合わせていなければならなくなります。つまり、インスピレーションの意識領域に出来上がっている完成図に注意を向けながら、それに似せて自分の作品を仕上げるということです。そうしますと、作品という<存在者>が生じる前に、作品の元型が、それ以上に完全な形でインスピレーションの世界に存在しているということになります。このインスピレーションの世界は、まだ物質的な作品が出来る前の非物質的な意識世界です。また、作家はそこから自己を超えた力がやってきていることを感じます。つまり、この世界は私たちの意識的な自己の力を超えた完全性の世界で、インスピレーションが湧いた瞬間に、そこに観た完成図が物質的な世界における作品という<存在者>を生ぜしめる元型とも原因ともなっていることが感得されるわけです。そこで、創作活動を通じてインスピレーションを受けることのある人なら、哲学者が「イデア界」や「イデアの観照」と言った時に、何のことを言っているのか、実感として分かるものではないかと思います。

この世の作品は、いかに完全なものであっても、インスピレーションの世界に出来ている完成図(イデア)に比べたら不完全です。なぜなら、それに似せたものを、物質的な素材でもって表現することになるからです。物質的な素材というのは、絵画の場合なら絵の具であったり、音楽の場合なら楽器であったり、文学の場合なら特定の言語であったりします(このようにして、ギリシア哲学における質料(素材)―形相(イデア)論を理解することができます)。こうして表現される作品が具象的であるのに対し、インスピレーションの瞬間において感得されるものは、具体的な素材以前のもの、言語以前のものです。ところが、私たちはインスピレーションを受ける時、その非具象的な観照対象を、どのように具象化して表現すれば良いのか知っている、と言うことができます。むしろ、それ自体が自己自身を具象化して表現する力をもっていて、それにあずかりながら、制作するのだと言った方が良いと思います。「自分の力以上の事ができた」という実感があるのは、そのためです。

どのようにしてインスピレーションを得るかといえば、思うに、自分の限界に迫るような仕方で努力しているうちに、インスピレーションを受け取れる領域に、意識の焦点が合ってくるというものではないでしょうか。つまり、インスピレーションを得るのに重要な事は、意識の集中だと思います。これは、たとえば数十分の間集中するというような意味でのものではなく、数日とか、数週間とか、事柄によっては数ヶ月といった時間をかけて行っていく集中です。(私の場合、ちょっとしたインスピレーションは、しばしば朝目覚めた瞬間にやってきますが、それが起こるのは、寝ても覚めても当の事柄について考えている時です。)

こうしたインスピレーションによる制作は、既に存在しているものの模倣や混合ではありませんので、<無>からの創造の一種です。そして、私たちはそのような創作において、神的な力の一端にあずかります。このような経験から言えることは、神的な力による<存在者>の生成は、何かこのような仕方によるものだということです。物質的な世界の<存在者>に先んじて非物質的な世界があり、その世界の方がより神的で、より完全で、より力強く、したがってより高い存在性をもっている。そしてそこに存在するもの、そこに生じるものが、次にそれ自身を具象化してこの世に表現するという仕方で、この世の諸存在が生じる。そういった具合に、<存在>というものを考えることができます。それで、哲学的に<存在>の問題を考える時、私たち自身が行う創作というものが手掛かりになるというわけです。「イデア界」というものも、そのように考えると、比較的に分かり易いと思います。また、物作りを通じて、私たちは神的な世界に接することができますし、<存在者>を生み出すという神的な力についても実感することができます。

前回もちょっと書きましたが、瞑想や坐禅が得意な方はそれを行えば良いと思いますが、創作は神の創造の一端を担うものだと言っても過言ではなく、私たちはそこから超越的存在についての、実感を伴った理解を得ることができるのです。今回は長くなりますので、この辺りまでにしますが、この種の実感の分析から、更に神的な世界の構造や、その起源にまでアプローチすることができます。哲学で言う「テオリア(観照)」というのは、こうした実感に注意を集中していくことではないかと思います。


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無題(写真)& Ligeti: Musica Ricercata No. 7


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創作において働く、作為を超えた力 ~ 行為的直観 ~

人間は、創作ということを通じて、自分の心の内奥に自分を超えたものを感知するということがあると思います。創作が上手くいく時というのは、そうした働きに助けられるようにして作品を仕上げるものではないでしょうか。人によって、その超越的存在を神と感じる場合もあれば、イデア(=形成原理)と感じる場合もあるでしょう。遠藤周作のエッセーを読んでいると、遠藤が小説を書くという行為を通じて、神の存在を理解していったことが分かります。

たしかに自分の意思で、意図どおりに書いているのではなくて、だれかが一緒に、私なら私の手を持って書かせてくれている箇所があって、それがそのページのクライマックスであったり、そのページの読みどころであったりするという経験は、本気で小説を書いているものにとっては、あるのです。(遠藤周作「宗教の根本にあるもの」, 『深い河創作日記』 講談社, 1997年, 所収)


私はだから小説のなかで人間を描きながら、その人間を見ている一つの顔をいつも心のなかに感じる。はっきり言ってしまえばそれは基督の顔である。人間をじっと見ている基督の眼である。その眼差しが小説を書きながら、私のなかで余計に感じられれば感じられるほど、私はその小説がうまく運んでいるのだと思う。その眼差しが心のなかで遠のいていく時は、私は自分の小説の人間の描き方がたんなる心理小説に終わっているのだと考えてしまう。なぜなら、心理小説は人間を心理からしか捉えていないからだ。心理の背後に人間の内部にはもう一つの領域がある。基督の眼がそれをみている内部領域がある。(遠藤周作「私の文学」<われらの文学>10『福永武彦・遠藤周作』講談社, 1967年. 『遠藤周作文学全集12』 新潮社, 2000年, 所収)



人間は自分の得意分野の働きを通じて、超越的存在の力を実感するものではないかと思います。以前にも私はどこかで書きましたが、たとえば苦手なのに努力して座禅や瞑想をしていても、まずは気が散るのを防がなければならないというような、初歩的なところで躓きかねないものです。西田幾多郎も、神についての観念的な教えを尊ぶより、自己の創作活動を通じて実地に感得し得る神を重んずるべきだと考えています。(西田の芸術論は、鑑賞者の立場からではなく、創作者の立場からのものです。哲学が芸術を論ずる時は、創り出す行為の内から語る必要があると思います。哲学体系の形成も一種の創出ですので、哲学者は芸術家と相通ずるところがあると思います。)

ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といえる詩の中にいったように、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕ぎんがんを作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、或意味においてかえって真の神に接していたともいえる。(西田幾多郎『善の研究』第四編「宗教」、第四章「神と世界」)


物づくりが得意な人であれば、創作活動に専心する時、「主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至る」(同書, 第三編「善」、第十一章「善行為の動機(善の形式)ことがあります。

物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我と区別のあるのではない。(同書, 第三編「善」、第十一章「善行為の動機(善の形式))


想像も美術家の想像において見るが如く入神の域に達すれば、全く自己をその中に没し自己と物と全然一致して、物の活動が直ちに自己の意志活動と感ぜらるるようにもなるのである(同書, 第三編「善」、第一章「行為 上」)


西田はこうしたところから、後に「行為的直観」ということを論じていきます。「行為的直観」というのは、「物となって見、物となって行う」ことですが、最初に引用した遠藤周作の「自分の意思で、意図どおりに書いているのではなくて、だれかが一緒に、私なら私の手を持って書かせてくれている」というのも、「行為的直観」の一例になると思います。

※ 西田の「行為的直観」というのは、行為や制作の中で働く直観のことですが、制作に着手する以前に、作品の全体を掴む直観というのもあります。たとえば「ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作った」(同書, 第一編「純粋経験」第一章「純粋経験」)とか、「モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができた」(同書, 同編, 第四章「知的直観」)という場合の直観です。このような直観の対象となる全体像はイデア的なもので、これ自体は具体性をもっていません(それは、いわゆる「イメージ」とは異なります)。この種の直観については、いつか改めて述べたいと思います。

※ ゲーテの「偉大なるかなエフェゾス人のディアナ(Groß ist die Diana der Epheser)」の、上に対応する部分も引用しておきます。

[...]
するとあるとき突然道行く人々の
大声にわめく言葉がきこえた
脳髄の中に 神がいますという
なんと 人間の愚かな額の背後に!
そしてわれわれが神の広大な知恵を読みとる
あの自然にまさってすばらしい神だという

老いた細工師はただ耳を傾けただけで
家の若者が市場に駆け出すのをとどめもせず
みずからは 彼の女神の膝を飾る
鹿やけものらの彫琢の手をやすめない
そしてたた 女神の顔が神々しく仕上がるように
運命の加護を得たいと望むばかりだ

さてしかし 考えの異なるひとがあるならば
好みのままに振舞うがよかろう
ただ「手にて造れる物」を辱かしめる者があれば
報いを得て非業の最後を遂げるだろう (高安国世訳)



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